高句麗語(こうくりご)は高句麗(紀元前37年 - 668年)の領域で使用されていた言語のことである。高句麗の滅亡とともに衰退し、言語としては消滅したと見られている。言語系統はツングース系とされている
中国史料の記述によれば、扶余・東沃沮・濊・百済(支配層)の各言語とは同系とされ、中国東北部から朝鮮半島北部にかけて夫余系諸語ともいうべき言語グループを形成していたらしい。この言語グループは沿海州の挹婁とは、「容貌は似ているが言語は異なる」と『後漢書』や『三国志』に記されている。また、朝鮮半島南部に広がっていた韓系諸語(馬韓・弁韓・辰韓ら古三韓の言語。後の百済の被支配層の言語や、朝鮮語の直系の祖語にあたる新羅語もこのグループに属する)とも言語的な異同が著しかったようである。
具体的な言語資料としては、『三国志』東夷列伝高句麗条や後漢書東夷列伝高句麗条、『日本書紀』に記述されている断片的な高句麗語の記録もあるが、最大のものは三国史記(1145年成立)の巻37・高句麗地理志と巻35・新羅地理志に記述されている高句麗地名から地名学的手法により導き出された高句麗語語彙である(内藤湖南・新村出1916年、桜井芳朗1952年)。最新の論考には板橋義三のものがある(2003年)。
再構された高句麗語語彙と周辺言語との比較の結果、高句麗語は中期朝鮮語よりも上代日本語との方が、類似語が見出される割合が大きいという研究もある。また日本語は、高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、日本語の起源として考える研究者も存在する。
ただし、そもそも「魏志東夷伝」などの「中国史書」に全く言及がないことから、3世紀当時の朝鮮半島北部から中部にかけて、どのような言語が分布していたのかについては未だ不明であり、再構された「高句麗語」なるものが、本当に高句麗の言語だったのかについても未だに実証はされていない(金芳漢: 1985年)。また、中国史書に記録されている高句麗語と三国史記における同一語が食い違っていたりする例もある。また、三国史記で高句麗地名が記録されている領域の多くは、もともと百済や濊の領地であり、後に高句麗が自国領とし、更にその後新羅が版図に加えた地域であることから、再構された語彙はむしろ百済語や濊語と見なすべきではないかという意見もある。
現代韓国は歴史学を学問としてよりも政治利用の道具とする事に重きを置いており
一般的に実証よりも政治的配慮を優先している。
例えば、再構語彙の根拠と成るものは資料的な制約から孤例や少数例であることも少なくない為、その精度を疑問視し再構語彙はあまり信用が置けないとして、新羅・高句麗・百済の三言語の同質性を主張する(金東昭)などである。他にも、金思燁は地名が長く伝承される性質があるとの理由で、原住民がつけた地名を後から来た高句麗人が受け継いだものもあると主張し、馬渕和夫がこの主張に追従している。金思燁が官職名と人名から高句麗語と新羅語が異質なものではないとする韓国的歴史真実
を創り出そうと試行錯誤していることについても、馬渕は官職名、人名の方に固有語が反映されるということは十分に考慮されなければならないと追従する